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山野愛子 美道~86年の歩み~

山野愛子は、
美容界の太陽であった!

赤ちゃんを見るときのような、慈愛にみちあふれたまなざし、 明るいほほえみ、おだやかで優しい語調、柔和な表情、落ち着いてもの静かな立ち居振る舞い、すべて心のゆとりの美しい現れです。
そのゆとりは自分の生きざまにベストを尽くし、あとは目に見えぬ 大いなる力におまかせする…という心境から生じるものだと思います。
内面からあふれ出るものの美しさ、昇華された精神美のエッセンスが 女性美に生命を与えてくれるものだと確信します。

ひとりでも多くのかたに より美しくなっていただきたいという願いをこめて、 私の天職である美容の仕事に熱中しているのでございます。

山野 愛子

Vocabulary 山野愛子 語録

  • 美道

    山野愛子は「美容」を進化させました。
    外側の美しさだけにとらわれていた昭和の中頃に 「美しさは内面から来ると」と提唱し大きな話題を呼びました。
    「茶道」「華道」等があるように美しさへの道があるべき、そう考え、美道五原則が誕生いたしました。
    本当の美しさのためには5つの原則が必要なのです。

  • 美道五原則

    髪:ひとり1人に合った髪型の美しさ
    顔:明るい笑顔が映える美しさ
    装い:伝統を活かしながら時代に合った着物の美しさ
    精神美:素直なこころと包容力をもった心の美しさ
    健康美:健康的にハツラツとした体の美しさ

  • 生きるほど美しく

    赤ちゃんを見るときのような、慈愛にみちあふれたまなざし、
    明るいほほえみ、おだやかで優しい語調、柔和な表情、
    落ち着いてもの静かな立ち居振る舞い、すべて心のゆとりの美しい現れです。
    そのゆとりは自分の生きざまにベストを尽くし、あとは目に見えぬ
    大いなる力におまかせする…という心境から生じるものだと思います。
    内面からあふれ出るものの美しさ、昇華された精神美のエッセンスが
    女性美に生命を与えてくれるものだと確信します。

    ひとりでも多くのかたに
    より美しくなっていただきたいという願いをこめて、
    私の天職である美容の仕事に熱中しているのでございます。

  • 思えば叶う

    何事も叶うと思わなければ絶対に叶わない大切なのは、その願い事を叶えるための努力と辛抱が出来るかどうかです。

  • 笑顔は人の心をつなぐ輪

    明るいスマイル、心からなるスマイルの大切さ。
    相手の立場を考えて、すべてが相手のよかれとサービスする心は、
    その“笑顔”から出発するのです。

  • 教えることは教えられること…

    教えるときは「教えさせていただきます」って言うのよ。教えるってことは、教わること多いから…

  • 教わり上手に教え上手

    教わるとき、赤ちゃんになったつもりで聞き教わること教えるときは博士になったつもりで

  • お客様をお迎えするとき

    技術がどんなに優れていても、お客様をお客様と思わなくなったら失格です。

  • 技術がどんなに優れていても、お客様をお客様と思わなくなったら失格です。

    赤ん坊を背負ったお客が来れば自分で背負って髪を結い、
    疲れ果てたお客がくれば居眠りを妨げないように自分の体を回しながら髪を結う。
    明るい微笑みと心のこもったサービス、それに優秀な技術の三拍子が揃えば鬼に金棒。
    ひとりに好評をとれば仲間を連れてきてくれて断らなければならないほどの大繁盛。

  • 負を正に変える知恵が新しい美容教育の扉を開けた

    意気揚々と日本橋蛎殻町に新店舗を開店させたが、新参者はなかなか受け入れられずお客は来ない。
    負けず嫌いの愛子の性分と知恵で新しい店にパーマネントの技術講習所を作った。これが評判になった。

  • 人生は富士山を登るが如く、頂上に達すれば下るばかり、常に八合目にいて頂上を目指すように。

    お店は連日満員。周囲にも勧められ中央に進出し美容院を開業することを決心。
    得意満面で天狗になっていた愛子の鼻をたたいたのは母の一言だった。

  • どん欲なまでの熱心さと研究心で常に新しい技術を吸収した。

    世界恐慌が深刻化していく時代でも女性のファッションは常に新しい、変貌を遂げていった。
    そんな折り、マーセルアイロンを研究して帰国した渡部学洋氏から助手の誘いがあった。
    「手伝いながら体得できる、こんないい機会はない」

Trajectory of life 人生の軌跡

  • 1909年(明治42年) 山野 愛子 誕生

    東京築地本願寺内の自宅で、父:弥太郎と母:すえの9人兄弟の未っ子として生まれる(右から4番目の抱かれている)

    父は銀座:歌舞伎座の前で「武蔵屋」という名で糸屋を経営。 背も高くなかなかの男前で女道楽も派手、宵越しの金は持たぬが建前の生粋の江戸っ子であった。 母すえは父を頼りにせず築地本願寺のお講部屋を預かり働き、子供たちの食事や小遣いを与えたり着飾らせて芸事を習わせるなどしていた。

  • 1915年(大正4年) 入学

    原宿小学校に入学

    のちに青山尋常高等小学校高等科2年修了

  • 1923年(大正12年) 美容を志す出来事

    関東大震災、被災の中で見つけた希望

    一瞬のうち灰と化していく東京の街を眺めいているとむなしさを覚え、この時に目にした被災した女性が河原で髪をまとめ容姿を整える姿を見て「明日の私の姿」として漠然とした希望が生涯命を懸けて一路邁進した美容師という目標への糸口になった。 しかし、当時の女結髪は職業婦人としては地位の低いものとされていた。 母すえの口癖は「芸は身を助ける不幸せ』であった。…芸を身につけておけば良い所へ嫁ぐ事もできるし夫に万一のことが起こった時にもその芸で身を立てることができるという思いがあった。

  • 1925年(大正14年) 16歳で美容院を開業

    『男はあてにできない。自分で稼いで生きていくしかない』との母の強い勧めで手に職を

    愛子の父は道楽者だったため、母は愛子に『男はあてにできない。自分で稼いで生きていくしかない』と手に職を持つことを強く勧めていたこともあり、美容の道を志す。 16歳になると上野池之端:志田美容学校へ入学し美容家としてスタートを切った。 6か月で美容に必要な技術を取得した愛子は、両親の料理店の一部に美容院【松の家】を開業した。
    のちに美容の殿堂【山野美粧院】に改称。 1932年(昭和7年)23歳で向島美容組合副組合長に就任。

  • 1934年(昭和9年) 日本橋蛎殻町2号店

    学校法人山野学苑の礎となる「美容講習所」の開設

    1934年(昭和9年)25歳、日本橋蠣殻町に【山野美粧院】を開業
    1階を美容室、2階を【美容講習所】開設。 この美容講習所開設年が、学校法人山野学苑の創立年となる。

  • 1935年(昭和10年) 結婚

    「契約結婚」のスタート

    逓信省の役人で琵琶の師匠であった中谷治一と見合い結婚
    琵琶の独奏会で作った借金を肩代わりしてくれる人であればだれでもよかった治一と、そして子供が欲しかった愛子は結婚。だから10年で更新する「契約結婚」であった。

    出産する都度、美容所を開設
    36年長男:正義、38年次男:凱章、39年三男:彰英、41年四男:尭明、43年五男:景章、44年六男:博敏、8年間で6人の男子を産んだ。

  • 1938年(昭和13年) 国産パーマネント機 製造に成功

    山野愛子を売り出すために考えたキャッチフレーズ 「パーマネント日本一の山野愛子」

    美容に無関心だった夫・治一だが、長男の妊娠が分かると、美容の本を読んだりと豹変、外国での電気によるパーマネントに関心を持ち電気学校に通い基礎知識を修得、アメリカ産のパーマ機を購入し分解、独学で研究して国産のパーマ機製造に成功する。当時、アメリカ産パーマ機は1台1000円であったが、750円で販売し多いに売れ、製造が間に合わない状況であった。

  • 1944年(昭和19年)~ 1945年(昭和20年) 太平洋戦争 長野へ疎開

    戦火による焼失…無から立ち上がろうとするファイト

    1944年(昭和19年)、戦火がきびしくなり、一家は治一の故郷の長野県伊那富村(辰野町)に疎開。疎開先の岡谷でも美容所を開き、また夫が編む草鞋を見て新しいへアスタイルを考案するなど美容一筋であった。 一方、東京空襲で日本橋蛎殻町、銀座、両国、浅草、新宿のお店をすべて焼失する。
    1945年(昭和20年)8月15日終戦
    戦禍のしたで日本国民が自信を喪失し、日々の暮らしに追われる中、愛子はめげるどころか「東京に帰れる。また美容が出来る」と喜んだ。無から立ち上がろうとするファイトであった。

  • 1944年(昭和19年) ヘアスタイル考案

    戦時中でも「もっときれいに」「手軽にできる」へアスタイルを

    疎開先の長野で美容を続ける中、作業をする女性にも「もっときれいに」「手軽にできる」ヘアスタイルを考案。
    ピンも元結も使わずきれいにまとめ上げる「ソフトローブ」
    草鞋を編むすがたを見て軽くて崩れにくく動きやすい「三つ編み」は別名「買出し髪」で評判になる。

  • 1950年(昭和25年) いち早くアメリカ渡航

    「日本は必ず復興する。その時に備えてアメリカの最新技術を学ぶ」

    治一・愛子夫妻が初めて海を越えてアメリカへ旅立つ。自分の技術の真価を問い、傍ら外国の技術を吸収したい!という長年抱き続けてきた夢の実現であった。 また、「日本は必ず復興する。その時に備えてアメリカの最新技術を学ぶ」という先見性があった。
    アメリカ各地で歓迎を受け、自身で考案したエンドカラーと日本の花嫁支度を披露する。
    マリネロ美容学校では、アメリカの毛染め、ブリーチ、その他先端技術やデザインを学び、修得。 そして《スキップウエーブ》《スカルプチュアカール》《スタンダードカール)》の三つの技術を吸収、新しい技術として日本へ持ち帰る。また、リノー美容大学でも学び、卒業している。外国での技術交流に先鞭をつけた功績は極めて大きい。
    なお、当時一般人が夫婦で渡航したのは「味の素」の社長夫妻についで二番目であった。

  • 1956年(昭和31年) 山野高等美容学校 代々木に新校舎完成

    美容生活30周年更なる美容教育のレベルアップ
    美容事業の規模拡大に積極的に動き出す

    欧米で最新の技術を入手し日本の美容技術ときもの文化が高く評価されていることに確信を深め、美容教育の理論化とレベルアップ、そして美容事業の規模拡大に積極的に動き出す。 当時、民間では最大の山野ホールを備えた地上5階地下1階のビルに改築し、国内最大規模の定員1000名となり美容師育成施設に発展させた。
    落成記念式典の席上、鳩山一郎内閣総理大臣、四宮久吉東京都議会議長から教育事業功労で表彰をうける。山野ホールで行われたテレビ撮影は『ロッテ歌のアルバム」「夫婦善哉」「お笑いスター誕生」など他、多数あり。
    この年、美容生活30周年を迎える節目の年でもあった。

  • 1957年(昭和32年) 欧米15ヵ国美容行脚

    世界15ヵ国へ 日本美容の神髄を世界に

    1957年(昭和32年)日本美容の真髄を世界に紹介する『世界15ヵ国美容行脚83日間』を実行。
    この時、羽田空港にバス21台で山野美容学校全生徒1300名が見送りに行ったことが新聞紙面に大きく掲載された。
    欧米で披露する作品のテーマとして日本の伝統的な花嫁を1人のモデルで七変化させる『花嫁七つのバラエティ』を各地で披露し高い評価を得た。
    ①道中着姿
    ②紅の内掛け、下着は白
    ③紅の内掛けをとって白の振袖式服姿
    ④赤地模様の振袖
    ⑤水色模様の振袖
    ⑥ピンクの元禄袖姿
    ⑦ハネムーンスタイルは黒地に雪模様
    衣装の素材は、西陣織を主に選び、これに合わせて『髪・メイクアップ・小物』等を変化させた。

  • 1961年(昭和36年)~ 1963年(昭和38年)

    1961年(昭和36年) YAMANO BEAUTY COLLEGE 開校(LA)
    『日本の技術』が西洋で役に立たないは思わない

    人間が美しく生きることが世界共通の願いと考え西洋の技術が日本に入ってきたのと同様に、日本で磨かれ育った『日本の技術』が西洋で役に立たないはずはないと、その西洋の土地(ロサンゼルス)に日本人の手による学校と美容院を作ってみたいという願いが叶った。
    授業は美容院形式をとり、実際にお客様にシャンプー、スタイリングを行うというユニークな授業であった。

    1963年(昭和38年) 山野愛子 ドロンコ美容考案
    日本初のサウナ風呂を併設した全身美容室オープン


    欧米旅行の際、西ドイツ(バイエルン)で湯治客が全身に泥を塗っている姿を目撃。
    「泥を塗るとポカポカと体が温まり肌も白くなる」と聞き、泥を持ち帰り泥浴の研究を始める。
    そして、日本で最初のサウナ風呂を併設した全身美容室を山中湖湖畔に建つホテル・マウント富士内にオープンした。

  • 1977年(昭和52年) 第1回 ハサミ供養法要

    生きとし生けるものに対する感謝
    技術向上を願い、人と人との「輪を和」を広げたい

    愛子は68歳になった。古希を前にしてふと生きとし生けるものに思いを馳せる日もあった。そんなある日、日頃よりお世話になっているハサミの供養を思い立った。針供養とイメージが重なった。使い古したハサミをみんなで持ち寄って供養しよう。それは美容の世界で役立ち続けてくれたモノに対する感謝でもあった。同時に技術向上を願い、人と人との「輪と和」を広げたい、愛子の思いは膨らんでいた。 8月3日を「はさみの日」と定めるよう提唱し1977年(昭和52年)に設定、初めて芝:大本山増上寺で8月3日「ハサミ供養法要」が執り行われた。
    1978年(昭和53年) 聖久観世音菩薩像が彫刻界の第1人者:北村西望氏によって作られ、増上寺境内に「ハサミ塚」を建立。 山野愛子が願主となり開眼大法要が営まれた。
    以降、毎年8月3日はハサミに関わる多くの人々が供養におとずれている。

  • 1980年(昭和55年) ~勲三等瑞宝章~ 受章

    美容界の誰もが受章し得なかった最高位

    1980年(昭和55年)永年にわたる美容業の向上発展の功績が 認められると同時に後進の育成に生涯かけて尽力した努力が讃えられた。
    勲三等瑞宝章は、女性では初めてである。
    そしてこれまで美容界の誰もが受章し得なかった最高位であった。

  • 受章歴

    山野愛子の主な受章

    1956年(昭和31年) 美容教育功労により東京都議会議長表彰
    1960年(昭和35年) 公衆衛生功労により厚生大臣表彰
    1961年(昭和36年) 公衆衛生功労により東京都衛生局長表彰
    1967年(昭和42年)  環境衛生功労により藍綬褒章受章
    1980年(昭和55年) 勲三等瑞宝章受章
    1988年(昭和63年) 日本文化振興会より社会文化功労賞受賞
    1990年(平成2年) 外務大臣感謝状
    1991年(平成3年) 文化長官表彰
    1992年(平成4年) 全日本美容講師会長表彰、
    美容週間実行委員会より日本美容文化賞受賞
    1995年(平成7年) 内閣総理大臣より従五位叙位

  • 1984年(昭和59年) カーネギーホール

    『山野愛子を世界の超一流の舞台に』

    ニューヨーク・カーネギーホールは超一流の音楽家以外に絶対にその誇り高い扉を開こうとしなかった。長男・山野正義の『山野愛子を世界の超一流の舞台に』という揺るぎない信念から実現した。
    『シンフォニー・オブ・ジャパン・トゥディ』と題し日本の四季の美しさと風俗を衣装・へアスタイル・化粧で表現した。 三千人を収容するメインホールは超満員であった。
    このステージ上で山野愛子の二代目として山野愛子ジェーンがお披露目された。
    舞踊家の朝丘雪路さんが踊りなどを披露され華やかなステージを引き立てていた。

  • 1990年(平成2年) 海外最後のきものショー

    世界へと発信し続けた「美容と文化」

    ソビエト連邦(現ロシア)モスクワの最大級の施設である青少年宮殿で開催された「日本文化週間」に、同実行員会から参加要請に応えて文化使節団を結成 「文化週間」の最後を飾る『きものコレクションショー』を公演した。
    モスクワっ子に多くの興味と感動を与えた。

  • 1992年(平成4年) 山野美容芸術短期大学 開学

    山野治一・愛子夫妻が生涯抱き続けた信念
    「美容は芸術である。芸術であらねばならない」

    東京・八王子に美容芸術教育と美容師養成施設としては、日本で初の高等教育機関である「山野美容芸術短期大学」を創設し、初代学長に就任した。
    美容教育の理論化について最大の貢献は【髪・顔・装い・精神美・健康美】からなる「美道五原則」を提唱したことである。この美容理論は山野愛子が「髪結い」の時代から自らの体験を通して考え理論として確立していったという意味で画期的であった。
    この理論化によって、著書『美容芸術論』を著し、愛子が目指していた「美容は芸術である。」との信念が結実し世界に通用する美容理論が誕生したのである。

  • 1995年(平成7年) 偉大な足跡を残し生涯を閉じる

    芸術を学び続ける人生

    愛子は、生涯学び続けた。
    そして78歳でNHK書道通信講座を受講して書道を第一歩から始めた。
    83歳の時には日本髪の塑像制作にも挑戦した。
    この生涯学び続けた姿勢こそ次世代を担うすべての人々が学ばなければならないだろう。

    美容を愛し、美容に生涯を捧げた人生
    晩年は病床で過ごすことが多くなったが、それでも常に新しい美容技術とか帯結びを考案したりして自由に動かすことのできる唯一の右腕を円を描くように絶えず廻していたという。
    1995年7月31日、帰らぬ人となった。

    美容を愛し、美容に生涯を捧げた86年の人生であった